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論文試験 過去の問題 | 京都大学 特色入試 h30 econ essay

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(1)

(注意)

平 成

30

年 度 特 色 入 試 問 題

《 経 済 学 部 》

論 文 試 験

1. 問題冊子および解答冊子は係員の指示があるまで捌かないこと。

2,問題冊子は表紙のほかに2 2ページある。

3.

q

/

?(,答冊子は表紙のほかに 1 0 ベージあり,そのうち「ます自J の部分が解答欄で ある。なお,別に下

'T

I

?

き用紙5枚を配布する。

4. 試験開始後,/q平答冊子の表紙所定欄に受験番号・氏名をはっきり記入すること。 表紙には,これら以外のことを勢いてはならない。

5 解答はすべて解答冊子の指定された箇所に記入すること。 6 解答に関係のないことを

Z

書いた答案は無効にすることがある。 7. 解答冊子は,どのページも切り隊しではならない。

(2)

[問} 以下の〔A〕,〔B〕二つの文章を読んで,設問に答えなさい。

〔A〕はマイケル・サンデ、/レ『それをお金で買いますか

J

の一部であり, 〔B〕は福

田徳三『復興経済の原理及若干問題』の一部である。

(注1)問題文には,見出し,注,旧I史学を含め一部を省略または改変したところがある。主要な省、略箇 所は, q砂と表記した。 〔B〕の文章には,不正確と息われる数値が含まれるが,原こえーのままとし

た。

(注2)隣題文の年号表記等,一昔日の和溺安宇は,算用数字に改めた。また,/q干答者の理解を助けるため, 必要に応じて,{ }内に補注を加えfこヤ

設 問1 [ A〕の著者は,「すべてが売り物になる」と何が問題だと考えているのか。 600字

以内でまとめなさい。

設 問2 〔B〕の表題は,「営生機会の復興を急、げJ とされている。著者は,本文を通して何

を主張しようとしているのか。著者が批判の対象としている問題及び時代背景に触

れながら, 600字以内で説明しなさい。

設 問3 〔B〕の最後の段滞で,著者は「この婆求は復興日本の一切の人が主張すべき処で

ある」と述べている。著者が「復興日本の一切の人が主張すべきJ と強調した理由を

400字以内で論じなさい。

設 問4 [ A)の祝点から,[B〕の議論を論評しなさい。その際,両者の議論の共通点と棺

違点について明示しながら, 600字以内で論じなさい。

設 問

5

3

在日本大震災の際に見られた日本人の「助け合い」精神は,日本人の共向体意識に

根ざした美徳として海外で称賛されf::_o しかし,共同体意識の強さは,個人の多様性

の欠如につながっているという批判もある。この問題には,どう答えるべきなのだろ

うか0 600字以内で論じなさい。

(3)

〔A〕

世の中にはお金で買えないものがある。だが,最近ではあまり多くはなしL いまや,ほと んどあらゆるものが売りに出されているのだ。いくつか例を挙げてみよう。

・刑務所の独房の格上げ.一晩 82 ドノレ。

カジフォルニア

J+

I

サンタアナをはじめとする一部の州では,非暴力犯が特別料金を払う と,払わない囚人とは別の,清潔で静かな独房に入ることができる。

・一人で、車に乗っていても相乗り車線を利用できる権利.ラッ、ンュアワーのあいだ 8 ドル。 ミネアポリスをはじめとする都市では,交通渋滞を緩和するため,一人乗りのドライバ ーでもお金を払えば相乗り車線を利用できることになっている。料金は道路の混み具合 によって異なる。

・インドの代理母による姐

1

辰代行サービス:6250 ドル。

代理母を探している欧米諸国のカップルは,その仕事をインドに蒜話語話することが増 えている。インドではそうした業務は合法であり,料金はアメリカの相場の三分のーに も満たない。

・アメリカ合衆回へ移住する

1

握手jl :50万ドル。

50万ドノレを投資し,失業率の高い地域に少なくとも 10の湖)Ii 占口を生み出した外医人は, 永住許可誌をもらう資格がある。

・絶滅の危機に

i

類したクロサイを懲つ機利 15万ドル。

南アフリカでは,一定数のサイを殺す権利をハンターに販売することが,牧場主に認め られるようになっている。絶滅危倶種であるサイを脊てて守るインセンティブを牧場主 に与えるためだ。

・主治医の携帯主主話の番号.年1500 ドルから。

1500 ドルから 2万5000 ドルの年会授を払うのをいとわない患、者に対し,携帯電話の番号 を教えて当日予約をとれるようにする「コンシェノレジュ

J

ドクターが増えている。

, I トンの二酸化炭素を大気中に排出する権利: 13ユーロ係ち 18 ドノレ)。

(4)

欧州連合(E U)は二酸化炭素排出市湯を運営している。企業はその市場を通じて,大気 汚染の緩和

l

を売買できる。

−子供を名門大学へ入学させる・。

価格は明示されていないものの,いくつかの一流大学の当局者が『ウオールストリー ト・ジャーナル』紙に諮ったところによると,きわめて優秀とまでは言えない生徒でも, 親が金持ちで相当な寄付をしてくれそうなら入学を許可する場合があるという。 (仰各))

われわれは,ほぼあらゆるものが売買される時代に生きている。過去 30年にわたり,市場 および市場価値 が,かつてないほど生活を支配するようになってきた。われわれは 慎重に選択してこうした状況に至ったわけではない。あたかも,ばったりと出くわしてしま ったようなものなのだ。

冷戦が終わると,市場と市場的思考は比減なき威光を放つようになっ

f

おそれも無君主はな い。物の生産と分配を調整するほかのし、かなるメカニズムも,富と繁栄を築くことにかけて は,市場ほどの成功を収めたことがなかったからだ。ところが,世界中でますます多くの国々 が,経済運営において市場メカニズムを信奉していたにもかかわらず,別の問題が起こりつ つあっ

7

ら社会生活において市掛図値の演じる役割はどんどん大きくなろうとしていた。経 済学は王土になりつつあった。こんにち,売買の論理はもはや物的財貨だけに当てはまるも のではなく,生活全体を支配するようになっている。そろそろ,こんな生き方がしたいのか

どうかを問うべき時がきているのf::;_o

2008年の金剛志機に至るまでの数年間は,市朗言仰と規制緩和が社会を陶然とさせた時期 一一すなわち,市場勝手jJ主義の時代だった。この時代が始まったのは, 1980年代初頭,ロナ ルド・レーガンとマーガレット・サッチャーがみずから¢信念を公にしたときのことだ。政 府ではなく市場こそが,繁栄と自由の鍵を握っているのだ,と。ピル・クリントンとトニー・ ブレアによる市場に好意的なリベラリズムに支えられ,この時代は1990年代までつづいた。 クリントンとブレアは,市場は公共善を実現する何よりの手段だという信念をやわらげつつ も,確闘たるものとした。

こんにち,その信念は疑われている。市場勝利主義の時代は終わったのだ。 2008年の金融 危機は,リスクを効率的に配分する市場の能力に疑問を投げかけただけではない。市場は道 徳から遊離してしまったため,どうにかして両者をふたたひ瀦びつける必要があるという意 識を広めもしたのである。だが,それが何を意味し,それにどう取りかかるべきかは,はっ

きりしない。

(5)

-市場勝利主義の核心にある道徳的欠陥は強欲さであり,それが無責任なリスク・テイキン グを招いたという人もいる。この見方によれば,解決策は次のようになる。強欲さを抑え込 み,銀行家やウオール街の経営者によりいっそうの誠実さと資任感を求め,同じような危機 の荷発を防ぐために良識的な規制を定めるのだ。

これは,ひいき目にみても一面的な診断にすぎない。金雨町志機の!擦に強欲さが一定の役害)1

を果たしたことは確かであるものの,問題はもっと大きい。この 30年のあいだに起こった決 定約な変化は,強欲の高まりではなかった。そうではなく,市場と市場価値が,それらがな

じまない生活領域へと拡大したことだったのだ。

こうした状況に対処するには,強欲さをののしるだけではすまない。この社会において市 場が演じる

f

賠 1)を考え箆す必婆がある。市場をあるべき場所にとどめておくことの意味につ いて,公に詰むき出する必要がある。この議論のために,市場の道徳的限界を考え抜く必要があ る。お金で良うべきではないものが干羽生するかどうかを問う必聖書がある。

普から非市場的な

I

臓が律してきた人生の側面に,市場や制号志向の考え方が入り込んで きたことは,われわれの時代における最も重大な展開の一つである。

《略))

すべてが売り物となる社会に向かっていることを,

L

配するのはなぜだろうか。

理由は二つある。一つは不平等にかかわるもの,もう一つは腐敗にかかわるものだ。まず は不平等について考えてみよう。すべてが売り物となる社会では,貧しい人たちのほうが生 きていくのが大変だ。お金で爽えるものが増えれば地えるほど,裕福であること(あるいは裕 福でないこと)が重姿になる。

裕福であることのメリットが,ヨットやスポーツカーを

'w

'.

ったり,優雅な休暇を過ごせた りといったことだけなら,収入や富の不平等が現在ほど問題となることはないだろう。だが, ますます多くのもの一一政治的影響力,すぐれた医療,犯罪多発地域ではなく安全な地域に 住む機会,問題だらけの学校ではなく一流校への入学など がお金で緊えるようになるに つれ,収入や富の分自己の問題はし、やがうえにも大きくなる。価値あるものがすべて売寅の対 象になるとすれば,お金を持っていることが世界におけるあらゆる違いを生みだすことにな

るのだ。

この欽十年間が貧困家庭や中流家庭にとってとりわけ厳しい時代た、った理由が,これでわ かる。食富の差が拡大しただけではない。あらゆるものが商品となってしまったせいで,お 金の重要性が増し,不平等の刺すような痛みがいっそうひどくなったのである。

すべてを売り物にするのがためらわれる第二の理由は,もう少し説明が難しい。不平等や 公平性の問題ではなく,市場には腐敗を招く傾向があるとし、うことなの

f

二生きていくうえ

(6)

で大切なものに値段をつけると,それが腐敗してしまうおそれがある。市場はものを分配す るだけではなく,取引されるものに対する特定の態度を表現し,それを促進するのだ。子供 が本を読むたびにお金を払えば,子供はもっと本を読むかもしれない。だがこれでは,読書 は心からの満足を味わわせてくれるものではなく,面倒な仕事だと思えと教えていることに なる。新入生となる権利を最高入札者に売れば,収益は培えるかもしれないが,大学の威設 と入学の名誉は損なわれる。自国の戦争に外国人の傭兵を濯えば,問胞の命は失わずにすむ が,市民であることの意味が皮められる。

経済学者はよく,市場は自力では動けないし,取引の対象に影響を与えることもないと決 めつける。だが,それは間違いだ。市場はその足跡を残す。ときとして,大切にすべき非市 場的価値が,市i剥国{直に締め出されてしまうこともあるのだ。

もちろん,大切にすべき価値とは何か,なぜ大切なのかという点について,人々の意見は 分かれる。したがって,お金で買うことが許されるものと許されないものを決めるには,社 会・市民生活のさまざまな領域を律すべき価値は何かを決めなければならない。この問題を し、かに考え抜くかが,本書のテーマである。

ここで,私が提示したいと思っている答えを前もって述べておこう。あるものを売買しで もかまわないと判断するとき,われわれ土それを商品として,キJi益を得る道具,使うための 道具として扱うのが妥当だと,少なくとも心のなかて、は判断している。しかし,このやり方 であらゆるものの価値が適切に狽羽もるわけで、はない。最もわかりやすい例が人間だ。奴隷告Ji がおぞましいのは,人間を商品扱し、し,競りの対象とするからだ。こうした扱いによって, 人間の価値を適切に評価することはできない。人間は尊厳と尊敬に値する人格として評価す べきであり,利益を得るための道具,利用する対象とみなしではならないのだ。

それ以外の大切なものや慣行についても,同じようなことが言える。われわれは,子供を 市場で売買することを認めてはならない。寅い手が子供を虐待しないとしても,子供を売賀 する市場は,子供のイ制度を測る誤った方法を表現し,促進することだろう。子供は消費財と

してではなく,愛し,世話するに値する存在とみなされるのが当然なのだ。あるいは,市民 であることの権利と義務について考えてみよう。|務審員としての務めを果たすために召喚さ れた場合,設かを身代わりに雇うことはできない。また,投票権を良いたいと熱望する人が いたとしても,市民がそれを売ることは許されない。なぜだろうか。われわれは,市民の義 務を私有財産とみなすべきではなく,公的な資任と考えるべきだと信じているからだ。市民 の義務を他人に委託するのは,その品伎を落とすことであり,その価値を誤った方法で評価 することなのである。

これらの例から,より一般的な論点が明らかになる。生きていくうえで大切なもののなか

(7)

には,商品になると腐敗したり箆落したりするものがあるということだ。したがって,市場 がふさわしい湯所はどこで,一定の距離を保つべき場所はどこかを決めるには,問題となる 善−−!民主康,教育,家庭生活,自然,謝野,市民の義務など一一の価値をどう測るべきかを 決めなければならない。これらは道徳的・政治的な問題であり,単なる経済問題ではない。 問題を解決するには,それらの善の道徳的な意味と,その価値を測るのにふさわしい方法を, 問題ごとに議論する必要がある。

これは,われわれが市場勝手jl主義の時代に尽くしてこなかった議論である。その結果,そ うとは気づかないうちに,またそうすると決めてもいないのに,われわれは市場経済を持つ状 態から,市場社会である状態へ陥ってしまった。

その違いはこうだ。市

tJ

対運済とは,生産活動を統制するための道具一一重要で有効な道具 である。一方,市場社会とは,人間の営みのあらゆる側商に市場イ価値が浸透している生 活様式である。それは,市場をひな形にして社会関係がっくり度される場なのだ。

現代の政治に欠けている

E

重大な議論は,市場の役害jlと範囲にかかわるもの

T

二 わ れ わ れ が 望んでいるのは市

1

樹監斉だろうか,それとも市場社会だろうか。公共生活や人間際百系におい て市場が果たすべき役害jlは侭だろうか。売

w

されるべきものと,非市場jj(J価値によって徐せ られるべきものを区別するには,どうすればいいだろうか。お金のカがおよぶべきでない場 所はどこだろうか。

《略))

J;宮の道徳性をめぐる大問題に取り組まなくてはし、けないことには賛同しでも,その11!!l思 に見合う力量がわれわれの公的言説にあるかどうか,読者は疑問に思うかもしれない。心配 するのも当然だ。市場の役害

i

と範劉を考え直そうとするなら,まず,二つのやっかいな隙容 を認めることから始めなくてはいけない。

一つは,過去 80年で最惑の市場の失敗のあとでさえ衰えを見せない市場的思考のカと威光 だ。もう一つは,われわれの公約言説に見られる敵意と空虚さだ。このこつの状況はまった く無関係というわけで‘ はない。

最初の障害については理解に苦しむ。 2C08年の金制'

1

白幾は当初,市場を無批判に信奉して きたことに対する道徳的な審判だと,広くみなされていた。さまざまな政治的立場にある人々 が, 30年にわたってそうしていたからだ。かつて権勢を誇ったウオール街の金胤機関が崩媛 寸前に陥り,納税者負担による大規模な救済措置が必要になったことで,市場の見直しが促 されるのは間違いないと思われた。連邦準備制度理事会(F RB)議長として,いわば市場勝 手jl主義信仰の教祖の座にあったアラン・グリーンスパンて、さえ, 「ショックで信じられない ような状態」だと認めた。自由市場の自動修正力を信じていたのは誤りだったと思い知らさ

(8)

れたのだ。市場志向を誇らかに掲げるイギリスの週刊紙『エコノミスト

J

の表紙には,なか ば溶けて液体と化しつつある経済学の教科書が描かれ,「経済学のど、こが間違っていたのかり

J

という見出しがつけられた。

市場勝利主義の時代は悲惨な結末を迎えた。いまこそ,市明言仰について道徳的に評価す べき待であり,頭を冷やして考え直す好期のはずだった。だが,そうはならなかった。

金融市場の目を緩うばかりの失敗にもかかわらず,一般に市場への信頼はほとんど損なわ れなかった。実のところ,金融危機で信用を落としたのは銀行よりも政府だった。 2011 年の 調査によれば,アメリカが直面する経済問題の責任が連邦政府にあると考える国民のほうが,

ウオール街の金鳳機関にあると考える国民よりも多く,その人数には二対一以上の開きがあ った。

金融危機のせいでアメリカと世界経済の大半が大恐慌以来最悪の不況に陥り,何百万もの 人々が職を失ったままだ。にもかかわらず,市場について根本から考え直す動きは起こらな かった。それどころか,アメリカで最も目立った政治的吊結は,ティーパーティー運動の盛 り上がりだった。この運動に見られる政府への反感と自由市場への心酔には,ロナルド・レ ーガンも脱指だろう。 20日年秋には,ウオール街占拠運動をきっかけに全米の都市と世界 各地に抗議の声が広がった。抗議運動の標的は,大手銀行と,企業の支配力と,拡大する一 方の経済格差た、った。イデオロギーの方向性は違うものの,ティーパーティー運動とウオー ル街占拠運動の活動家たちはいずれも,金融機関の救済措慣に対する怒りの声を民衆に代わ

って発したのだ。

そうした抗議の声とは裏腹に,われわれの政治生活において,市場の役害rJと範囲をめぐる 真剣な議論はなされないままだ。民主党と共和党は相も変わらず,税金,支出,財政赤字に ついて論争をつづけているが,いまや党派色が増すばかりで,啓発や説得の能力はないに等 しい。公益のための仕事も,最重要課題への取り組みもできない政治システムに国民が不満 を募らせるにつれて,政治への幻滅は深まっている。

公的言説のこうした危うい状態が,市場の道徳的限界の議論を妨げる二つめの障害だ。い まや政治論争の大半が,ケープ、ノレテレビの番組での怒鳴り合い,ラジオのトーク番組でのラ イバル党のこき下ろし,議場でのつまらないイデオロギー的対立から成ると言ってし

v' o こ うした現状では,出産,子供,教育,健康,環境,市畏性といった善の価値を測る正しい方 法は何かとし、う意見の分かれる道徳的早覗

E

について,筋の通った公の討論ができるとは想像 しにくい。だが,私は,そうした討論は可能であり,われわれの公共生活を活気づけてくれ るはずだと考えている。

われわれの政治が敵意に満ちているのは,道徳的信条が過痴ほせいだとし、弘、もいる。つ

(9)

-まり,あまりに多くの人々が,あまりに深く,あまりに強くみずからの信条を信じ,それを ほかのみんなに押しつけたがっているというの

f

二そうした見方は,現在の苦境を誤って解 釈するものだと私は思う。われわれの政治で問題なのは,議論が多すぎることではなく,少 な す ぎ る こ と た めv剖2過熱しているのは,中身がほとんどなく,道徳的・精神的内容を欠 いているから

f

二政治は,人々が関心を寄せる大きな問題にきちんと取り組んでいない。

現代政治における道徳の空白には多くの原因がある。その一つが,善き生とし、う概念を公 的言説から追い出そうとする試みた、。われわれは党派的な争いを避けたいがために,市民が 公の場に出るときには道徳的・給神的信条を棚上げすべきだと主張しがちだ。だが,よかれ と患ってそうしたにもかかわらず,喜善き生をめぐる議論を政治に取り入れようとしない姿勢 が,市場勝手iJ 主義と,市場の論理の淑存につながったのである。

市場の論理もまた,独特のやり方で公共生活から道徳的[

l

i

請命を排除する。市場の魅力の一 つは,市場料前たすIt告白子について半

J

I

院!?を下さないことだ。ある善の評価の方法がほかの方法 よりも高級かどうか,あるいは価値があるかどうかを問わないのだ。設かがセックスや腎臓 を金で災いたいと思い,同意する成人が売りたいと思えば,経済生子二者が問うことはただ一つ,

fしてらで?J

f

二 市 場l記駄目安出さない。市場は立派なl鳴好と低俗な!唱好を区別しない。 取引をする両者は,交換するものにどれくらいの幅

f

if

ii!

i:

を置くかをみずから決めるのだ。

{面

f

剖’ J 断を避けるこうした姿勢は,市場の論理の中心にあって,その魅力の大半を説明すi る。しかし,市場を信奉してきたことと,道徳約・精神的議論に関与したがらない姿勢のた めに,われわれが支払った代償は大きかった。公的言説から道徳的・市民的エネルギーが失 われ,こんにち多くの社会を苦しめているテクノクラート的で管理主義的な政治がはびこる 羽目になったのだ。

市場の道徳的限界をめぐる議論を通じて,市場が公共事手に役立つ場合とそくーわない場合を, 社会として決めることができるだろう。議き生をめぐって対立するさまざまな考え方を公共 の場に招き入れることによって,政治も活気づくはずだ。そうした議論がjjljの方向に進むこ となど,あるだろうか? ある警の売買が,それを腐敗させたり腹落させたりすると認める 人は,そうした蓄の価値を設

I

るには,ほかの方法とくらべてより適切な方法があると信じて いるはずだ。ある活動一一親の務めや市民の義務など の腐敗について語るとき,規や市 民としての一定のあり方が,ほかのあり方よりもよいと考えているのでなければ,語られた 言葉は意味をなさない。

いまだに見られる数少ない市場への制約の陰では,その種の道徳約半

I

Jl1

f

r

が{動いている。親 が子供を売ったり,市民が票を売ったりするのを,われわれ土許さない。その理由の一つは, 率直に言って中立的ではない。そうしたものを売るのは,その価値の測り方を誤り,慈しき

(10)

-風織をはびこらせることであると,われわれは信じているのである。

市場の道徳的限界について考え抜くには,こうした問題在避けて通るわけにはし、かなしL

われわれが大切にする社会的善¢価値を損jlる方法について,一緒になって公に考えることが 必要になる。道徳的な活力の増した公的言説が,仮にその真価を発揮したとしても,賛否の 分かれる問題すべてを合意に導し、てくれると期待するのは馬鹿げている。だが,より健全な 公共の生活の創出にはつながるだろう。そして,何もかもが売り物にされる社会に生きるこ

とで,われわれがどんな代償を支払わされているかに気づかせてくれるだろう。

市場の道徳性について考えるときにまず頭に浮かぶのは,ウォーノレ備の量駁?とその向こう 見 ず な 酎

T

,ヘッジファンドや救済措置や規制改革といったことだ。だが,われわれがこん にち直面する道徳的・政治的難題は,もっと幅広く身近なものだL ーすなわち,社会的随行, 人間関係,日常生活における市場の役割と範凶を考え直すことなのである。

《略》

2000年代前半,財政が逼迫した多くの市や町が喜多のような申し出に惹きつけられた。ノー スカロライナ州のある会社が,新車のパトカーを年間 l ドルて、提供すると申し出たのだ。撃事 光灯と後部座席の鉄格子もついたフル装備の車問だ。この申し出にはちょっとした条件がつ いていた。ナスカーレースの出場率のように,広告と企業のロゴでパトカーをすっぽり覆う

というのだ。

撃事察署や自治体の幹部のなかには,普通なら l台2万8000ドノレほどするパトカーの値段と くらべれば,広告は安いものだと見る人もいた。 28州の160あまりの自治体が契約を結んだ。 パトカーの提供を申し出たガヴァメント・アクィジションズという会社は,関心を示した自 治体と契約を結んでから,地元企業と全国的な企業に広告スペースを売り込んだ。広告は趣 味のよいものでなければならず,アルコール,タバコ,銃器,

R

i

専の広告は引き受けないこ とを同社は強調した。同社のウェブ、サイトには,想定される例として,撃事察車両のボンネッ トがマクドマノレド、のシンボ、/レである金色の

M

形アーチに緩われている写真が掲載されている。 顧客にはドクターベッパー,自動車部品会社のナパ・オートパーツ,ベッパーソースのタパ スコ,アメリカ郵便公社,アメリカ陸軍,潤滑油のパルボリンなどが名を連ねた。ガヴァメ ント・アクィジションズが将来の広告主として交渉を言十回していたのは,生

E

討す,ケーブルテ レビ会社,自動車販売店,警備会社,ラジオ局,テレビ局だった。

広告をまとった警察車両が登場するかもしれないとしづ見通しに,賛否両論が巻き起こっ た。新開の論説委員と一部の撃事察当局者は,いくつかの見地からこのアイデアに異議を唱え た。警察がパトカーのスポンサーを優遇する危険性を懸念する窓見もあった。警察がマクド ナルドや,ダンキンドーナツや,地元の金物店によって提供されると,法の製府の底知激と権

(11)

民主が夜められるとしづ意見もあった。また,この昔1-l函が自治体そのもののイメージを傷つけ, 必要不可欠なサービスへの資金投入に対する一般市民の意欲に水を差すという主張もあったo

コラムニストのレナード・ヒロツツ・ジュニアはこう書いた。 「社会の秩序ある運営のために 決して欠かせないもの,社会の噂読まにとってきわめて本質的なものは,それゆえに普から, みなが共同で公共苦手のために雇って装備を整えた人員だけに託されてきた。

r

去の拶

tf'r

はそう

した任務の一つだ。少なくとも,かつてはそうだったJ

契約支持派も,警察に商品の宣伝をさせることへの違和感は認めた。だが,財政難の時代 には,広告をつけたパトカーが助けてくれるほうが,まったく助けてくれないよりも市民に とってありがたいはずだと主張した。 日企業の]マークをつけて走るパトカーを見たら,市 民は笑うかもしれませんJ と,ある警察署長は言った。 「それでも,その車が緊急、時に駆け つければ,来てくれて本当によかったと感じるでしょう」。オマハのある市会議員も,当初 はこのアイデアが気に入らなかったが,節約できる金額に気持ちが動かされたと述べた。そ して,こんなたとえ話を持ち出したや fスタジアムには,フェンスにも通路にも広告がある い市民ホールもそうです。

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ll.

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也味でなし、かぎりは,パトカーの広告も悶じことでしょうJ

スタジアムの命名権や企業スポンサー契約には,道徳的な伝染力か,少なくとも影響力が あることが明らかになった。パトカーをめぐる論争が起こったときには,すでに人々の治神 は命

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'i 1

をや企業スポンサーに

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:

らされ,商業的な慣行がさらに市民生活に侵入してくるのを 予期していたのだ。

だが,ノースカロライナ州のこの会社は結局,パトカーを l 台も納入しなかった。会限的広 告主に対する参入への反対運動をはじめ,市民の反発に直面して計闘を断念したらしく,そ の後,廃業した。だが,パトカーに広告をつけるというアイデ、アは消えていなかった。イギ リスでは,営利企業をスポンサーとするパトカーが 1990年代に登場した。内務省が公布した 新たな条例により,宅葬祭が年間予算の

t

詮大 iパーセントまでをスポンサー契約によって得る ことが許可されたためだ。ある警察当局者はこう諮る。 「最近まで,それは禁断の領域でし た。いまや何でも手に入りますJ 。1996年には,ハロツス、百貨店がパトカー l 台をロンドン の特別警察官[訳注非常時などに出動するボランティアσ:警察官

J

!こ進呈し

f

こ。車体には,ハロツ ズ独特の書体で「この車はハロッズが樹共していますj と警かれていた。

パトカーの広告は,その後アメリカでも笠場した。もっとも,ナスカーレースの出場事の ようなスタイルではなかったが。 2006年にマサチューセッツ州リトノレトンの撃事察署が導入し たパトカーには,地元の食料品店チェーン,ダンランズ・スーパーマーケットの控えめな広 告が3 ヵ所につけられていた。広告はパンパ一周ステッカーの特大版とし、った外見で,トラン クと左右荷方の後部フェンダーに取りつけられた。広告と引き換えに,このスーパーは町に

(12)

年間 1万2000 ド、ルを支払った。車 l 台のリース料がまかなえる金額だ。

私の知るかぎり,消防車の広告スペースを売り出そうとした者は,まだいない。だが, 2010 年にケンタッキーフライドチキン(K F C)はインディアナポリス消防局とスポンサー契約を 結び,新メニューの誠事」グ、リルド・チキン・ウインクQの宣伝

l

こ乗り出した。契約には, インデイアナポリス消防隊との写真事長影と, K F Cのロゴ(シンボルで、あるカーネル・サンダ ースの顔を含む)を市のレクリエーションセンターの消火器につけることが含まれていた。 インディアナ州の別の町では, K F Cは同様の宣伝をするために,ロゴを消火栓に貼る権手JIを 実った。

広告は,市民的背誠と公共目的の中核をなす二積績の施設,刑務所と学校にまで侵入して いる。 2011 年,ニューヨーク州バッフアローのエリー郡刑務所は,逮捕直後の被告に向けた 広告を高品位テレピの画面に流しはじめた。そうした視聴者をターゲ、ツトとするのは,どん な広告主だろうか0 保証業者[訳注初級金を貸したり,手数料をとって保話人になったりする業者] と被告側弁談土だ。コマーシャル料金は l年契約で週刊ドル。そうしたコマーシャルが,規 則や面会時間に関する刑務所からの案内とともに流される。家族や友人が被収容者との商会 を待つロビーでも,広告が商簡に映し出される。郡政府は広告収入の三分のーを受け取り, そのおかげで郡の財政は年跨 8000 ドノレから l万5000 ドノレの士回収となる。

この広告はたちまち売り切れた。手配を請け負った広告会社の代表,アンソニー ・N・デ ィーナは,こんな利点、を説いた。 「人は刑務所にいるとき,何を望むでしょうか? そこを 出ることです。有罪判決は望みません。保釈を望みます。それから,弁談士も希望します」。 広告と視聴者の組み合わせは完墜だったわけだ。ディーナは『バッフアローニューズ』紙に

こう諮っている。 「広告を発信するなら,相手がまさに決断を必要とするときにしたいもの です。これはまさにそのケースです。究俸の『悶われの視聴者』とし、うことですj

チャンネル・ワンが広告メッセージを流す相手は,また別の種類の囚われの視聴、者だ。ア メリカ全土の教室で、広告を見せられる何百万人ものティーンエイジャーで、ある。コマーシャ ノレのスポンサーが提供する 12分間のテレビニュース番総, 『チャンネノレ・ワン・ニューズ』 は, 1989年に起業家のクリス・ホイットノレによって始められたものだ。ホイットノレは学校に 無料のテレピ,ビデオ持嫁苦,衛星リンクを

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創共する代わりに,毎日学校で番組を放送し, 2 分間のコマーシャルも含めて生徒たちに必ず見せるとしづ契約を結んだ。ニューヨーク州は 判交へのチャンネノレ・ワンの導入を禁止したものの,大部分の州は祭止しなかったため, 2000 年には l 万2000校で 800万人の生徒がチャンネノレ・ワンを視聴してい

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こ。アメリカのティー

ンエイジャーの 40パーセント以上が視聴者となったおかげで,ベプシ,スニッカーズ,クレ アラシノレ,ゲータレード,リーボック,タコベル,アメリカ陸軍といった広告主に対し,チ

(13)

ヤンネノレ・ワンは 30秒間のスポット CMl本でおよそ 20万ドルという高額な料金(ネットワ ークテレビの広告料金に匹敵する額)を誇求できた。

チャンネル・ワンの幹部はその財政的成功について,若年j習向けマーケティングの会議で 1994年にこう解説した。 「広告主に対する最大のセールスポイン卜は,子供たちに 2分間の コマーシャルの視聴を強縦していることです。広告主が手にするのは,トイレにも行けない, チャンネルも変えられない,裏庭でどなる母親の声も隣こえない,ゲーム機で遊ぶこともで

きない,ヘッドフォンもつけられないという状態にある子供の集団なのですJ

ホイットノレは数年前にチャンネル・ワンを売却し,現在はニューヨーク州で営利目的の私 立学校を開校しようとしている。彼が以前経営していた会社には,もはやかつてほどの影響 力はない。 2CD0年代前半のピーク時以来,チャンネル・ワンは契約校のおよそ三分のーと大 手広告主の多くを失った。それでも,教室主でのコマーシヤルというタブーを破ることには成 功した。こんにち公立学校には,広告,企業スポンサー契約,プロダクトプレイスメントに 加え,命名権さえもがあふれでいるのだ。

《略》

学校にはびこる商業化は,二つの箇で腐敗を招く。第一に,企業が提j:lf;ぐする耕イの大半は 偏見と

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泊だらけで,内容が浅簿だ。消

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’ 者同盟の調査によれば,

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くまでもないが,スポ ンサー提供の耕寸の80パーセント近くが,スポンサーの製品や観点に好意約たしかし,た とえ企業スポンサーが客観的で非の打ちどころのない品質の教育ツールをも到共したとしても, 教室の商業広告は有害な

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討王だ。なぜなら,斜交の目的と相容れなし、からである。広告は, 物をほしがり,欲望を満たすよう人を促す。教育は,欲望について批判的に考えたうえで, それを抑えたり強めたりするよう促す。広告の目的が消費者を主主きつけることであるのに対

し,公立学校の目的は市民を育成すること

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子供の生活の大半が消費社会の基礎訓談にあてられている時代に,身の回りの世界につい て批判的に考えられる市民であるよう生徒に教えるのは,容易ではない。多くの子供が,ロ ゴ,商標,ブランドものの服で身を包み,歩く広告塔として通学している時代に,学校が?再 焚主義の精神にどっぷり浸かった大衆文化から田町殺をとるのはし、っそう難しいし,む、っそう 重要でもある。

だが,広告は悶離を嫌う。広告は場所と場所の境界線をぼかし,あらゆる環境を荷売の場 にしてしまう。 「校内で自社の収入の

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庇れを見つけましょう!J 。学校広告業者のマーケテ イング会議を宣伝するパンフレットでは,そう誠われている。「字を習っている l年生にも,

の製品を確実にご紹介します! J

(14)

-不況,固定資産税の上限設定,予算の削減,入学者数の増加などのあおりを受け,財政難 に陥った学校は,マーケターが校門に詰めかければ入れるしかないと感じてしまう。だが, 非があるのは学校よりも,むしろわれわれ市民だ。子供たちの教育に必要な公約資金を調達 する代わりに,パーガーキングやマウンテンデューに子供たちの時閉そと売り,心を貸し出す

ことを選んでいるのである。

商業主義は触れるものすべてを破壊するわけで、はない。消火栓は, K F Cのロゴをつけても 水を出して火を消せる。地下鉄車両は,ハリウット明磁の広告で収縮包装されても,われわ れを夕食に間に合うように帰宅させてくれる。子供たちは, トワツイロールを数えることで 算数が学べる。スポーツファンは,バンク・オブ・アメリカ・スタジアムでも, A T &Tパー クでも,リンカーン・ファイナンシャル・フィールドでも,ホームチームを応援できる。た とえ,そうした競技場をホームと呼ぶチームに命名することが,ほとんどの人にとって不可 能だとしても。

それでも,企業のロゴをつけることは,その物事の意味を変える。市場はその痕跡を残す。 プロダクトプレイスメントは審物の高潔さを汚し,著者と読者の関係を蝕む。入れ墨の身体 広告は,お金を受け取ってそれを体につける人を物として扱い,日乏める。教室内のコマーシ

ヤノレは学校の教育的目的を擦ねる。

そうした判断に具論のあることは認める。書物,肉体,さずニ佼の意味と,それら¢価値をど う決めるべきかをめぐっては,人によって意見が異なる。実際,市場が侵入してきた領域 一家庭生活,友情,セックス,生殖,健康,教育,自然,芸術,市氏性,スポーツ,死の可 能性のすが、方 の多くについて,何が正しい規範なのか,意見が一致していない。だが, 私が言いたいのはそこだ。市場や商業は触れた警の性質を変えてしまうことをひとたひ溜砕 すれば,われわれは,市場がふさわしい場所はどこで,ふさわしくない場所はどこかを陪わ ざるをえない。そして,この間いに答えるには,善の意味と目的について,それら安支配す べき価値続についての熟議が欠かせない。

そのような熟議は,議き生をめぐって対立する考え方に角材もざるをえない。それは,われ われがときに踏み込むのを恐\;11, る領域だ。われわれは不一致を恐れるあまり,みずからの道 徳的・精神的信念を公の場に持ち出すのをためらう。だが,こうした関いに尻込みしたから といって,答えが出ないまま問いが放置されるわけではな

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\市場がわれわれの代わりに答 えを出すだけだ。それが,過去 30年の教訓である。市場勝利主義の時代は,たまたま,公的 言説全体が道徳と精神的実体を欠いた時期と重なった。市場をその持ち場にとどめておくた めの唯一の頼みの綱は,われわれが尊重する善と社会的

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行の意味について,公の場で率直 に熟議することだ。

(15)

この善ゃあの善の意味を論じることに加えて問う必要があるのは,われわれはどんな種類 の社会に生きたいかという,もっと大きな悶いだ。命名権と自治体マーケティングが共通世 界を私物化していくにつれ,その公共性は減じてし、く。特定の善に寄をおよぼす以上に,商 業主義は共通性を損なう。お金で買えるものが増えれば増えるほど,異なる職種や階層の人 たちが互いに出会う機会は減ってして。野球の試合を観に行き,スカイボックスを見上げる とき,あるいはスカイボックスから見下ろすとき,それがわかる。かつて球場で見られた,

11'1嚇が交じり合う経験の消滅は,見上げる人のみならず見下ろす人にとっても損失だ。 われわれの社会のいたるところで,淘じようなことが起きてきた。格援が広がる時代に, あらゆるものを市

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新七するとし、うことは,懐の豊かな人とそうでない人がますますかけ敗れ た生活を送ることを意味する。われわれは刻々の場所で暮らし,他/Jき,買い物をし,遊ぶ。 子供たちは別々の学校に通う。それはアメリカ人の生活のスカイボックス化と呼べるかもし れない。それは民主主義にとってよくないし,満足できる生き方でもない。

民主主義には完墜な平等が必要なわけではないが,市民が共通の生を分かち合うことが必 要なのは間違いなし

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大事なのは,出自や社会的立場の異なる人たちが日常生活を送りなが

ら出会い,ぶつかり合うことだ。なぜなら,それがたがいに折り合いをつけ,差"'を受け入 れることを学ぶ方法だし,共通

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を尊ぶようになる方法だからだ。

つまり,結局のところ市場の問題は,実はほかの人々とともにどう生きることを裟むかと いう問題なのだ。われわれが望むのは,何でも売り物にされる社会だろうか。それとも,市 場では評価されずお金では震えない道徳的・市民約書きというものがあるのだろうか。

(出典)マイケノレ・サンデル〔鬼漆忍訳〕『それをお金で買いますか市場主義の限界』早川

書房, 2014年。

[B〕

今日の社会制度の規準たる法律は,ローマ法伝来の所有従本位の空理に基くもので,実際 の生活とは非常に縞たりのあるものである。平生はこの大矛盾をゴマカシコジツケて来たけ れども,この度の大震災の如き非常特別の大事件に巡うと,この根本的矛盾は,ありありと 我々の限に映ずるようになる。私共の立場からいえば,かくの如き空虚にして非現実的な法 律市jl度の下に生を営むは,誠に迷惑千万なことで、あって,大災は偶々この迷惑を繊度まで緊 張せしめたのである。従って自然の勢としてここに極窮権の発動することを免れなかったの

- 1 4

-(出典)(原著)Copyright (c) 2018 by Michael Sandel Reprinted by permission of ICM Partners       Michael J. Sandel (著), 鬼澤 忍 (翻訳) (2014)『それをお金で買いますか―市場主義の限界』

(16)

である。緩窮権とは,人がその生存を脅かさるるコト極度にして極窮(エキストリーム・ニ ード)の状態に陥るとき,其生存を維持するに必要なる有形,無形のものを収用する経済権 をいう。言換えれば,人の生存権が危殆に瀕するとき発動する本来権が極縞権である。この 度の震火災に際しては,其生存が脅かされた人は無数であった,市して其危迫が極度であっ た場合には,人々は知らす識らず自ら短窮権の実行者となると共に,他人の極窮権を厚く尊 重したのである。其例の如きは,新聞紙上の記事に枚挙に濯ない程である。これ等の事例 は,所有権本位の法律

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良から見れば,決して歓迎すべきものでなく,或ものは非服せられね ばならず,或ものは処罰せられねばなるまい。一例を号にう。私の親戚の若いー婦人は,本 所に猛火に追立られ,右と左とから来る火に,隅問川に飛び込む外なかったが,主幹に船があ って,其中へ避難して火を免れ,再び土手の上に上ったが,恰も向から河の中へ子詰込んで這 い上って来たと見える丸裸の

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請人が来た。

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主婦人は上記の若い婦人が,兎に角単衣を一枚被 って居るのを見て,御前さんは衣物をきて居るじゃなし、かとて,手に持って厨た小さな風呂 敷包を引ったくって走り去ったということである。所有権本位の

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良から見れば,如何なる場 合にも,他人の風呂敷包を引ったくるは不法なことであるに相違ない。しかし上記の場合引 ったくったことは,恐らく殺人もこれを怒り,これを停めることは出来まい。何んとなれば, それは極窮権の行使とその尊重との一例であるから。男なら兎に角,女が丸裸で歩くとし、う

ことは,とても湛えられないことである。夢中で、水から這上ったときは兎に角,ハット気が ついた瞬間,彼女は寧ろ死んだ方がよかったと思ったかも知れ民

λ

終処へ風呂敷包を持った

ひ主

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也の焼出され女を見たとき,彼女は何の理屈を考うる逢もなく,自然本来の要求として極窮 からの脱出を求めたのであるo 私はここには比較的インノセントな例を引し、たが,インノセ ンスの遥かに欠けた湯合をあげようとなればイクラもあろう。

極窮権は一種変態の生存権である。それが発動せねばならぬような状態を作り出すことは, 甚だ希わしからざることである。然しながら,所有権本位の法律を無理にこじつけて居る限

り,時あってか,極窮権の発動することは到底免れることが出来ないのである。よの例にあ げたような,自然的極窮の場合に,この権の発動することは極めて当然なことで,これを呪 うべき理由は少しもないが,左様でない場合に其の発動するのは,所有権就中其の

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印有に対 抗する場冷が最も多い。先生手の米騒動の如き即ち其適例であった。《

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略》

所有権を認めこれを尊重するのは,左様することが,人間の生存を維持し,共同生活を繁 栄ならしむるに,有力有効であると認められるからである。だから所有権の主張が明かに人 間の生存を脅し,其の共同生活を害する場合には,共は尊重せらる可き寝泊を失ったもので ある。平生歩くときは,下駄をはくのが使利であり調法である。しかし猛火に追い詰められ たときは,それをぬぎ捨ててかけ出さなければならぬ。然るに紳士たるおれは,主日何なる場

(17)

-合にも下駄なしに馳出すなどとしづ不行儀は出来ないと頑張ったら,茶人は恐らく焼け死ん で自タめであろう。所有権の主張と尊重とは,更らにこれを制約すべきより高い原理の下に 立つものである。国家,社会は,この高い原理の擁護者たることに

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:本来の使命を有する。 所有権の認承と保訟とは,決して酒家最高の任務其ものではない,其の最高の任務を支う可

きーの手段たるに過ぎない。然らば,其の高き原理とは何であるか,私は答えていう生存権 の主張と主主の擁護これである。

生存権とは,凡ての生存するものが平等に且つ完全に享有す可き最線本的,最本来的の権 利である。国家社会は其の中に生くるものに対して一様にこの本来権を認め,その主張を擁 談すべき商き使命を有するものである。この高き使命を侵害する他の権利は,この使命の前 には何等の権威をも有することは出来ない。若し強し、て権威を主張せんとすれば,其処に憾

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持機宥くは更に奇形的なる其;の変態が発動するとし、う結果を招くのみとなるのである。 在、は生存権本伎の社会政策を主張すること君主に久しいが,此度の大災ほど痛切にこの主張 の切婆なるを感ぜしめたことはない。従来私の生存権論に対しては綴々な批評を関し、た。或 人は臼く,それは自然法時代の陳腐な個人主義思怨、を主義り換えたものに過ぎない,社会政策 はその様な個人権などの上に築かるべきものでない。また或人は日く,単に生存することを 擁護するというコトは,何会事の文化価値を有しない,従ってそれは如何なる学払引本系に対し でも,指導統制原狸たり得可きものではないと。私は今これ等の人々に潤いたい,自由とか 録制約

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直とカ鳴リ造{

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直とか其他様々な名称でいいくるめられて居る,所請文化イ凶(直なるもの が,本所の樹踊跡にむらがって居た人々にとって何の意味を有して居たか,奇災後 l ヶ月

あわせ

の今日まだ住む可きバラックなく被るべき袷一枚持たず, 30日間一度も入浴もせざる 人々にとって,所調文化生活の主張者等は,果して何物を与え,何物を付け加え得るかと。 人が極務の状態に澄かれたるとき,実;の指導原理たり統総原理たり能わざるものに,我々は 何の普遜性を認め得るか。普遍的の統制者は,僅窮の場合にも,平生の場合にも,均しく統

fljl階 た る も の で な け れ ば な ら ぬ 極 窮 のi拾 に 全 く 繭 す る よ う な 糊jl原理には,我々は統 制原理たる資格を認めることは出来ない。

「生きよ而して生かしめよJ とは哲人フイヒテが19世紀の初頭に喝破したことであるが, 今日も尚燦然として光を失わざる不朽の真理である。我々は個人としても,亦国家社会の一 員としても, 「生きよ而して生かしめよ」なる哲理の下に立って,生を望むものである。こ の哲理は,決して個人主義思想の結晶ではない,社会国家に於ける共存共楽の理法も,亦こ の管理を仰いで普通の統制者とするものである。生きた人から成る社会,国家は,先ず凡て の人を生かしめ而して自ら生きなければならぬ。これが其先天命題である。文化価値の哲学

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というものが,災前の日本社会の指導哲学で、あったとしても,それは今丸焼けとなって仕舞 ったこと,文化哲学の輸入元たる丸善書店のそれに於けるが如くならずんば僚倖というべき である。文化生活とかの主張は,文化住宅とか称する薄っぺらな建築物同様,今度の大震に ーたまりもなく倒壊して仕舞ったにあらざれば,それはー¢{亮倖である。これに対して,私 は,生存権の主張は大災を経ていよいよその緊切さを証拠立てられた不朽普通の要求である

と信ぜざるを得ぬものである。

所有権本位の世界観は,物を主とし人を従とする,否,多くの場合,ただ物のみを見て, 其の主体たる人を全く度外に霞く。当面の問題でこの次第を最も痛切に示すものは,焼跡ノミ

ラック建築問題これである。借地借家権は,建物という物の干引隻を根本の条件とする。故に 其の建物が大災によって全焼した今日,借地借家権は,全く消滅したものだというのは,所 有権本位,物本伎の法ノ倖観からいえば,尤も千万な主張であって,如何に巧妙なこじつけを 以てしでもこれに打克つことは出来ない。否,こじつければつけるほど変挺なことになる。 或人日く,建物が焼失すれば借家借地権は消滅するとし、うことには,多少解釈の余地がある。 即ち家屋其ものは焼けたに相違ないが,その家庭なるものは,住居人がその財産を持込み, これを保管して霞く場所であった。その財援の中には焼け残った俸になって居るものもあろ

う。これ等は依然として,!日住居人の所有権内にあるものであって,彼はその処理をなすべ き権利を有する。従ってこれ等残存財物の処裂に必要なる限りは,仮建築をして,その処理 の済む迄其処に居住することを許さるべきであると。

《略》

この論理は我等から見れば,奇妙不思議な結果を生ずる。焼け残ったバケツ一個,半焼け の第一本のある限りは,仮建築は出来る,それ等{可もなく,本当の丸焼けになった人は,仮 建築をすることは出来なし九然らば問う,焼け出され,生残った人間の処理を如何する。バ ケツや符の処理の為めには,仮建築は出来るが,最緊要の焼け残った人間の生存の処理の為 めには,其れが出来ないとならば,其処理は州可にしてこれを保障するつもりなのか。誰属 品調もここに至って極れりと言わなければならぬ。今日最も処理の急なるは,バケツや結で はない,焼出されて住むに家なく,食うに米なき幾十万の憐れな人間これではないか。然る に今日の法律では,バケツや務の処理の為めには,寛大な解釈を許しつつ,この鋒れな人間 の処理の為めには,一条一項も設けられてないのである。さりとは,余りに非現実的非人間 的ではないか。

物を主とし人を無視する現代観は,上記の外幾多の事例に於いて暴露された。東大の図書 館が丸焼になったとて,文化の中心東京を去って京都に移らんと声言した人があった。図書 館というものさえあれば,其処が文化の中心となり,其物のない東大は文化の意義を全く失

(19)

-うなどとは噴飯にも値せぬ速|折である。東大の図書館は焼けた,確かに焼けた。しかし東大 の学者中大災の為に死んだ人はたしか一人もなかったと思う。東大は依然として多数の有為 なる学者を有して居る。ただ漢の研究の道具たる図書が今暫らくの間欠けて居るというだけ である。然るに道具が焼け

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ま,学者が何人居ても,文化の中心を京都に奪われるなどとは, 如何に物本位の考え方が勢力を有するかを託明するものではないか。思えば,恩えば,所有 権本位の社会が非人情的の物格中心主義に腹落したことは実に甚だしいと言わねばなら11"-o

図書錆と青い顔をした人が若干名あ

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ま,それで文化の中心が出来ると考えるのは,若手やノ《 ケツの処理の為めに,バラックを建てることは出来るが,人間の生了手擁護の為めには,それ が全く許されないというのと,全く同様な迷想で,殆んど御話にもならない,\間無視線であ る。

私はこれらの時流に対して,生存権擁護の立場から,一切を考え直し,見直すことの切要 なるを主張せずには措く能わざるものである。災れと同時に,今政府が彪大な

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見換を以て着 手せんとする復興事業に対して,この立場から少からざる疑倶の念を懐くを禁ぜざるもので ある。{可となれば,今日までに公にせられた政府の復興に関する方主|や

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函立は,依然として 物本{立のものて、あって,人本イ立の施設に至つては,殆んど隠くことを得なし、からである。後 藤子{後H革新平のこと}が企てる復興は形式復興に備し,道路,建物,公関等に主としてえま

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し,物の技剖

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は八方から集めて来るが,これらを利用すべき人間の復興に就ては,一体如何 するつもりなのか一向わからないのである。

私は復興事業の第一は,人間の復輿でなければならぬと主張する。人間の復興とは,大災 によって破主義せられた生存の機会の復興を意味する。今日の,、問は,生存する為めに,生活 し営業し労働せねばならぬ。即ち生了務長会の復興は,生活,営業及労働機会一一此を総称し て営生の機会エルヴェルフ。ス・ゲレーゲンハイトという一一の復興を意味する。道路や建物 は,この営生の機会を維持し擁護する道具立てに過ぎない。それらを復興しても,本体たり 実質たる営生の機会が復興せられなければ何にもならないのである。

営生の機会の復興から,当聞の問題を見ると,私は検''!)!{ として益融す可き幾多の階礁が, その解決の前に横って居るのを見出さざるを得ないのである。私は今その一二について卑見 を述べて見ょう。

第ーは,失業問題である。大災によって殆ど一切の東京市民は一時的失業者となった。其 種類は色々にわけ得るが,仮りに(一)財産所有者にして財産収入を失った者(二)独立営業 者にして営業収入を失った者(三)康弘

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労働者にして震われ口を失った者(西)自由労仰j者に して失業した者の四とすることが出来よう。彼等はし、ずれも(ー)生活及営業一一合せて営

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生という一一の本拠たる場所と,営生用の道具の全部若くは一部を失い(二)向後営生の

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原泉 たる可き収入を失ったのである。失業者とは後者のことをいうので,これに対して前者を一 般に権災者といって居る。即ち擢災者の中には失業者と非失業者とを含んで居るのである。 幸幼2この学究的区別を為す所以は,人の復興,営主主機会復興のことを考うるについて,其の {可れを主とし,其の{可れを先にするかの根本方針を決定するに甚だ肝要であるからである。 而してそれと潤時

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こ擢災救護と復興とは,決して同一視すべきものでないことが,これによ って分明するだろうと忠弘何故となれば,擢災救護は,% に角失われたる営生の物的姿{牛 を支給することであるが,復興は,其の人的割牛を保証することでなければならぬからであ る。救護は(ー)の損失を補填するに止まる。市して其れはホンの一時の話である。災後1ヶ

月を閲した今日に至るも,尚,此の補填すら充分に行渡らないと言うは実に逃憾千万なコ卜 であると共に(ニ)の復興に就いて殆んど何事も企てられて活ないことは,悲しむべき惨事で ある。親類や知人に相当な生活を営む人があって其処へ一時立退いた人は(ー)の才主主華の間約 とはならない。然しながら,永くその状態を続けることは出来なし、。向後生を営むべき源泉 たる収入を得る途は,一日も平く彼等に与えられなければならぬ。配給によって撫華の巨的 となって居る懐災者も,決して永く其状態を続けしむ可きではない。然るに(二)の途が立た なし、今日,続戚知人の許に避難して居る者と市営のバラックに救護せられて居る者とを関わ ず,少数の者を除いては,{可れも徒手遊食を余儀なくせられ強制的惰民となって居る。東京 市とその隣接町村とは,今日現在何十万というこれら不木主主的惰民を収容しつつあるのであ る。かくては,如何に内外の同情厚くとも,到底永く支え得るものではない。一日も早くq3<

入の源泉を有制呆すべき生相機会の擁護が行われなければ,復興などということは,問題とな らないのである。

(仰各))

私は書官段に示した四種の区別について逆に述べて見ょう。先ず第四種の自由労働者,これ はその平生の営生がたた狭められたとし、うだけで,兎に角,住と食とを与えられて居る。中 には人夫などに雇われることによって(二)の収入の源泉は,災前よりもより豊富に与えら れて居るものもある。荷車募から夜にかけての日比谷一帯の此頃のj阪かさは,明かに此の事を 証明して居るではないか。故に私はいう,この第四穏については,目前も亦た近い将来も友 迄悲観するには及ばない。更らに私の主張する経済網が回復せられ,復興の意気が衰うるこ

とさえなければ,彼等の営生の機会は自ら苦悩呆せられるであろうと。

(21)

人であっ

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こ。上記の内焼失した工場数は総言十1732 であって,総数の 8害l j Q] 5 に当る。其l餓ヱ 教は総計7 万 2586 人で,総数の 7害1J7 分 18 に当るということである。私立工場だけを分け て見ると,焼失工場数は総数の8害1J o29 に当り,その職工数は総数の 7 割 6 分 45 に当る。こ の外附長l町村に1962 の工場その従業職工数日万 677 人あるが,その内どれだけが焼けたか は,米だ

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査が出来て居らない。止と等の

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紺妥町村所主

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の工場の中には焼けなくとも経営能力 を永久的にか一時的にか失ったものも少からずあろう。

仮りに其の一切の割合を5割と見ると, 6万近くのi織工が遊んで居るわけで,市内のそれ と合算すると, 10 万人ばかりの失営主主機会者があるわけである。職工l 人が平均2人ずつの 家族を扶養するものとすると, j/¥!Ji¥l: {およそ

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30 万人の失営生機会者が市の内外に遊食して居 るわけである。この数はもとより私の推測によるものであるから,実際はモット多し、かも知 れず,また少し、かも知れないのはし、うまでもない。

さりながら,兎に角,二階堂氏の精確なる統計によれば,東京市内で8割近いl隊工が適当 なる営生機会を奪われたので,災後1 ヶ月にもなる今日,それは全く回復せられないで其ま まにあると言っても大過はないのである。二階堂氏は更らに各穏の*別について詳しく調査 せられたのだが,戎工業の如きは全滅といってもいい状態にある。例えば,

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手工場の如き は総数146 工場の内 144 焼けて,残るは僅かに 2 ヶ所, l阪工数は3239 人の中,焼け出され工 場のそれは3207 人で,タッタ 32 人だけが;焼け出されざる 2 工場の職工数なのである。

更らに中央職業紹介事務局発行の公報淡災版第一号によれば(ー)震災のため全然失業状 態にありて復活の見込なき労働者数!万2756 人(二)当分失業状態にある数!万4925 人(ー)

(二)合計2 万 7708 人とある。日本労働総間関の調によれば,失業者総数 3 万 3574 人,外 に官設工場職工総数 l 万3315 人である。その推定では職工現在数 13 万 496 人であるから, 失業者の割合は,二

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皆主主氏の統計ーよりズット少いわけである。私は二階堂氏の百分率の方が 実擦により近くはなし、かと恩うが,仮りに3 万 3000 の失業脇工としても,これに 3 を罪をすれ ば10 万とし、う数が出て来るのである。而してそれは寧ろ甚だ少きに失せはせぬかと私は思う。

吏らに工場以外の雇術者

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こ就て見るに精機な数字は一向得られないが,失機会者の割合は 恐らく工場職工のそれに類したものであろうと思われる。私は応急の処置として,これら凡 ての雇術者については,この際緊急』拘令を以て3 ヶ月の解雇申入れ期間を要せしむ可しと主 張して

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置いた。しかしそれは同じく焼出された使用主にとっては大なる苦痛であろう。故に 私は国家は,先ずこれ等労働者¢使用主に,必要にして適当な補助を与う可きものと信ずる ものである。而して3 ヶ月の申入れ期間の経過せざる内に,出来るだけ早く経済網の回復を 図ることによって,失業者を出すことを減ずる方法を諮ぜなけれまならぬ。或人は,これら

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の履{席者に従前牧入の何日分かを直接政府から給与す可しと主張するが,私はそれは適当な 方法でないのみならず,流通経済の復興は却ってそれがために妨げられはせぬかを恐るるも のである。

次に第二種の失機会者が来る。私は目下最も悲惨な悲観的状態にある人々は,此の穏中に 最も多数を占めて居ると思うのである。彼等の中には,永久に東京に於て営生の機会合見出 し得ないものも少くあるまい。東京が過当に膨脹した都であるという批評には真理がある。 而してそれはこの第二種に属する人の多いことによって註せられて居たとし、うも過言ではあ るまい。従って復興東京には,彼等の或部分は永久に不要に属するか,又は永久に営生の機 会が到来しないことはやむを得ないことと見なければならない。う

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芸,此穏の全部が不安 に帰することはない,新しい東京は彼等の多くを必要とせざるを得ぬ。無論その中のあるも のは,この際末永く東京を見捨てるものもあろう,若くは其経済的地位を見捨てて,雇館者 となるものもあろう。それは必ずしも悲む可き,又は防止す可きことではない。然しどれだ けがかくなり,どれだけが残る可きかは,これを予測,予言することは出来ない。文士の或 ものが大阪永住,郷皇引退を決したとかいうことは,或は寧ろ歓迎すべき現象ともいう可き であろう。此第二種中には寄食階級といわねばならぬものも少からずある,それが其の状態 を脱出することは,却って結構千万といわねばならぬ。この穏の人々に対しては,私は,或 る特定の施設は,至I]底不可能でもあるし,また希認す可きでなし、と信ずる。その取扱は,一 般的に経済網の復興による外はない。それが復興すれば,留る可きものは自ら留り,与えら

る可き営生の機会は自ら与えられると信ずる。

次に第一種の者がある。此種には大小中の差異が甚だしい。数戸の家作{貸家]で漸く生討 を営んで居たものもあろうし,大財産を擁して豊富なる生計を立てて居た者もあろう。私は 一般的にし、う,単に財産牧入に衣食する種類の人々が,永久に其機会を失うことは国として 必ずしも悲むべきことではない。唯此の種中,企業能力を有し事業指導管理の事に当って居 た人々が絶滅することは,国,社会の深憂とすべき処である。

第二,第一両種の人々にとって今大問題となるは,火災保険金問題これであろう。次には 復興資金の融通これであろう。

(仰揺》

未だ外に沢山の問題があるが,余り長くなるから止める。要するに,復興第一の標準は, 営生機会の復興にあらねばならぬ。徒らに形式復興,建築復興,入れ物の復興(総評すれば 温装復興)詐り考えて,月千腎要めの其中に入って生き,且叶動く可き人間の復興を閑却する が如き現下のやり方は,根本的に改めて貰わねばならぬ。この要求は復興日本の一切の人が

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主張すべき処である。その権災者たると然らざると,権災地に住むと否とによって,少しも 具る所ある可きではない。何んとなれば,復興は単にi隆災地のみのことでなく,日本全体に

かかる大事業であるから。

(出典)福田

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恵三『復興経済の原理及若手問題』同文館, 1924年。初出は,福

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:E

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:恵三「営生 機会の復興を急げJ (大I EI 2年IO月15

24日『報知新問』掲載)。

参照

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